前回の二回目は父親の葬儀の翌日でありました為に参加出来ませんでした「寺島まちの歴史掘り起こし隊」vol.3北部地区編に本日は参加させて頂いて参りました。
今回の北部地区では「旧玉ノ井」地区を歩くという地元の歴史上では目を背けられないエリアであります。
駅前に集合し少々肌寒くなりました寺島のまちを歩きます。
明治32年に北千住~久喜の間で開通しました東武鉄道は、明治35年には北千住~業平橋(現スカイツリー駅)まで開通したそうです。
しかしながら関東大震災で焼失してしまった旧玉ノ井駅は、以前は「白髭駅」と呼ばれていた駅名でありその後に「玉ノ井駅」となり、やがて「東向島駅」と名前を変更して参りました。
現在では歴史的な「玉ノ井」という町名さえ無くなり、町会名でしか残っていない状況であります。
同じように「寺島」という名も学校の名称でしか残っていないのも寂しい限りであります。
このエリアには昔は「大倉牧場」という牧場があったことや、小学校に埋蔵金のうわさ話があった事など本日まで地元に住んでいながら知らない事ばかりでした。
そして昭和3年~昭和11年の短い期間に『京成電鉄白鬚線』という沿線が寺島の中に存在した事すら初めて耳にしましてビックリしました。
ここに東武と京成の浅草まで沿線を延ばす熾烈な争いがあった証であるそうです。
そしていよいよ玉ノ井に入り込みます。
今では殆ど面影が無くなって仕舞いましたこの界隈でありますが、当時の面影を辿る建物がほんの僅かだけ残っています。
当時はモダンなタイル張りの丸い柱は塗られていますが面影を辛うじて残しています。
路地を歩いていますと本当に何処に居るのか分からない様に入り組んでいて迷子になりそうな細い路地が当時のメインストリートだったそうです。
同行なさった往年のご婦人は、「玉ノ井」という遊廓を歴史から一掃してしまい、歴史から無くすような町名や駅名の変更を悲しく思うと仰っていました。
「あの当時に玉ノ井が無ければ、沖縄のようなもっと悲惨な現状になっていたよ…!」と当時を思い出されていました。
「寺島のまち」の陰の歴史に脚を踏み込んだ本日の町歩きでした。
大変勉強させて頂きましてありがとうございました。