昨日は晴海トリトンに出掛け、私ども実行委員会向けにニッカウヰスキーさんがセミナーセミナーを開催なさって下さいました。
ニッカウヰスキー・アンバサダーのお話は、創設者である竹鶴政孝氏の熱いウイスキーに注いだ情熱からスタート致します。
「日本人に本物のウヰスキーを飲んで欲しい。」という竹鶴氏の熱き情熱は、1853年ペルー来航の頃より偽りのイミテーション・ウイスキーを飲まされていた日本に一人の若者が道を開きました。
1918年当時24歳でありました竹鶴氏は、「ロングモーン・グレンリベット蒸留所」「ヘーゼルバーン蒸留所」「ジェームスカルダー社ネース工場(ジョニーウォーカー・グレンウイスキー)」をノートやメモを取らないという条件で研修に入り勉強致しました。
白衣のポケットの中に手を入れ書き記したメモが、日本のウイスキー史を切り開く「竹鶴ノート」を生みだしました。
実に2年間の研修だったそうです。
リタ婦人と出逢い妻とした竹鶴氏は、研修に出してくれていた酒造会社の衰退から日本に帰国する事となり
日本で浪人生活をしていた際に、1923年当時赤玉ポートワインでヒットしていたサントリーの前身である寿屋・鳥井信次郎氏からオファーを受け10年の契約で入社することとなりました。
(赤玉ポートワインで冨を築いた鳥井氏は本格的にウイスキーを作ること考え、スコットランドに技術者とノウハウを求めたところ、日本人で竹鶴氏を紹介受けたそうです。)
こうして当時の200万であり現在では50億円という巨額な資金をつぎ込み山崎蒸留所が誕生し初代工場長に竹鶴氏が選ばれました。
1934年退社後に、ニッカウヰスキー前身の大日本果汁株式会社を設立し余市蒸留所が誕生致します。
日本の9箇所あるウイスキー蒸留所の中で唯一海に近く(海岸から900M)余市蒸留所は、世界でも殆ど残っていない石炭直火焚きの蒸留所でもあります。
「我々は風の味をつくらなければならない…。」
それが竹鶴氏のウイスキーに対する情熱の証であります。
本日のニッカウヰスキー様のセミナーはとても内容の深いお話が多く、お酒を扱う私どもバーテンダーにとってとても刺激となるセミナーでありました。