自分達が生まれ育ち慣れ親しんだ街について、ただ毎日の日常を送るだけでは「何も知らずまま…?」時間がが経過してゆくばかりであります。
インターネットで検索するだけでなく、実際に街を歩き先輩方と街の歴史を振り返る事こそ大切なことかも知れません。
葛飾北斎の作品に登場して参ります「法泉寺」からスタートしまして、今回の「寺島まちの歴史掘り起こし隊」はスタート致しました。
寺島の道々は曲がりくねり真っ直ぐの道は幹線道路くらいであります。
その理由を明快に説明出来る資料を手にして街を歩き始めますと「行き違いの道」に差し掛かります。
「何故…?」
そうした疑問を子供の頃には抱きながらも、日常の生活の中では当たり前となり疑問にも思わなくなっている自分があります。
明治・大正・昭和と時代を経過した地図を眺めますと、寺島の道は水路である事に行き着きます。
この行き違いも橋があった名残であり、当時の水路の跡が道となり今に残っている証なのです。
白鬚神社には様々な歴史的な石碑や墨田の文化財が存在致します。
今回の町歩きの中で、子供の頃にはお祭りでの露天の思い出だけでありました神社の境内には、大変勉強になります品々があることを学べました。
かくれんぼに当たり前の様に使っていました煉瓦の塀も由緒ある一族の屋敷跡であることで合点がいきます。
向島の名所であります「向島百花園」の由来を学び、子供の頃に肝試しをして遊んだ蓮花寺では、肝試しのスタートの合図に使っていましたものの正体が47歳を迎える今となり判明致しました。
「輪蔵(リンゾウ)」といわれる輪っかは、『一度回すとお経を一回唱えるのと同じ効果があるとされ、祀られる六地蔵に対するものでありました。
「反省」
我が母校であります墨田川高校の中には幸田露伴作の校歌の石碑があり、何故4番が刻まれているかの説明を受けます。
廃止された寺島図書館は日比谷図書館の分館であった話や、尋常小学校時代の母校であります一寺小の跡地でもあったそうです。
Beeの前の水戸街道の歴史には大変興味深いお話を聞けて、亡き祖父の時代が蘇ります。
今回の道のりは京島まで伸び、曳舟駅付近の通称ヘビ道が川の跡である意味を聞かされながら、寺島の外れまで脚を伸ばしました(京島の電気湯までが寺島だったそうです)
最終目的地であります曳舟小学校が本来は第四寺島小学校の名称の予定だった話も印象的でした。
こうした我が寺島の話を聞きながら歩く町歩きは次回も続きます。