『NATIVE』という単語に最近は大きな期待と不安を感じることがあります。『原住民』や『土地っ子』という意味を持つ言葉ではありますが…、本当に意味に適った『地元人』であるのか不安になることがあります。
とても素敵な言葉でもあり、故郷や自分自身の存在を認識するには大切な『NATIVE』という言葉なのですが…、今やひとつのファッションにもなりえる言葉でもあります。
この街は環境の変化という大きな波の中で、変貌を遂げようとしています。
その変貌を求めたのは、もとは『NATIVE』と言われる先住民なのかも知れません。しかし変貌する姿を目の前にすると腰を引き、『保守』という立場に逆転し、『改善』という小規模の『変化』を求めたのだと意見するようにもなりえます。
生活環境に対しての『利便性』への願いを抱くことは当然な事だと思います。しかし一度大きく変化しだすと『NATIVE』が渇望した状況以上だと感じ、変化する波は大き過ぎると実感します。
そこで急に反対案などを掲げ、『NATIVE』という旗を掲げて『保守』というスローガンを掲げて対抗しようと居直ります。
私なりの感想でも地元意識という観点では『当たり前』という神話を信じ込み、『隣の芝生』を渇望する事がありました。若いときには都心に憧れ、地元である下町に利便性を感じないまま…、都心の快適さに思いを寄せました。
そして地元に戻り地域に根付きながら腹を括り視野を地元に求めると、『NATIVE』という看板の重みと、その看板に対する葛藤までが湧き上がることがあります。
『先住民』という言葉を持てば、その土地の伝統や習慣などを知り、快適な利便性を求めて新たに住まれた方々よりも街を熟知しているかのように思われますが、果たしてそうなのでしょうか…?若い頃には地元よりも都心に目を向け憧れを抱いた私には…、地元に対する否定的な意見までも抱いたがあることは否定出来ません。
大きく変貌を遂げようとする波の中で、この土地を目指し移り住み、新たな故郷と志した方々に対して『NATIVE』という看板を暴力に変えてはいけないと思います。
その土地の将来は皆の財産であり、固まりきった『NATIVE』のしがらみだけでは切り開くことは出来ないとも思います。
決して新たな波は侵略ではなく、伝統や人間性までも変えてしまうものではありません。
『流れの無い水は腐ります。』
その『溜まった水』を『泉』と勘違いしているのは『NATIVE』そのものなのかも知れません。
『共存共栄』という新しい将来こそが、新たな真の『NATIVE』に導かれる道なのかも知れません。